Lism -RITZとmaaiのふたりごと-

楽しさ、追求中。

いまを生きるあなたへ、

 
2年前の自分。
 
違和感と向き合うことにも順応し始めた頃、世界は自分が思っている以上に楽しいことを知った。そして かたわれを見つけた。
 

そう、実は私たち まだ2年程のお付き合い。
(決してそういう意味ではなくって)
 
 
 
そんな2年前の自分が綴った、まだまだ青い春
のような言葉たちと再会しました。
いつだったか あなたに発した言葉たち。
せっかくなので、
 
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いまを生きるあなたへ。
 

教育のなかで生きる。
今まで何かをしたくて参加してきた 多くの当事者研究会。それこそ、自分とはなにか という疑問以上に感じていた違和感があって。
ずっと、議論の渦中に当事者がいないからだと理由付けをしてきたのですが、違いますね。主張自体が違うんだなーって。
 
私たちは権利主張がしたいわけではなくって。
 
子どもの発達に携わるいま。
なにかを抱えている子どもが発する
「ここに居るよ」
このことばって、すごく重いと思うんです。
その真意には
「気付いてよ」があって、
だけど 今を変えてほしいわけではなくって、
もっともっと簡単なことであって、
ただ自分の存在を認めて欲しい、
そういうことなのかなーって。

法律を変えたいとか、教育を変えたいとか、
そんな大それたことができたら かっこいいなーとは思うけれど、
「いま目の前にいる子どもが、今よりも もうちょっとだけ生きやすくなればいいな」自分はいつでも ココがベース。

「世界はきみが思っているよりも、ずっとずっとやさしいよ」
ただ味方で在りたいと、そう思っています。

教育主体なので対象が子どもになってしまいましたが、
これって何にでも当てはまるんだなーと、改めて気付かされる今日この頃。自分なりの確固たる教育観があるのに、何故か当事者研究会では、感覚や論理的思考が乖離していて。おそらく まだその中で自分の役割を決め兼ねているんですね、きっと。

自分で自分の限界を決めて、
どこかで抑制をかけるって、
自分を守る最大の防御だけれど、
なんだか かっこよくないですね。
もう少しわがままで在りたい。
そう、思いました。
 
 

自分たちは LGBT当事者です、

あなたたちとは ちがいます、

少数派だからこそ 守られるべきです、

権利主張を認めてください、

そんな生産性のない話ではなく、





みんな同じこの世の中で、

こういう人もいます、

すべてがスペクトラムの延長線上にあって、

楽しいことが こんなにたくさんあります、

できないことを嘆くより、

じゃあ どうしたらできるのか、

手段よりも目的であって、

どうしたら楽しく生きられるのか、

そんな展望のある話を、

少しずつ 拡げていきたいと、

生意気ながらに、そう思っています。
 
 
 
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いつでも寄り添えるように。

いつでも正直で居られるように。

アウトプットを大切に。

 

いつかあなたのとなりを歩くために。
Lism/maai